2026.01.13:第28回 私の回顧録
忘れることのできない
〜ある常連さんの物語〜
みなさん、こんにちは。
「糸偏コラム」にお越しいただき、ありがとうございます。
前回は、生地屋にとって最大のイベントとも言える「年2回の売り出し」について、その舞台裏や現場の熱気をお話ししました。今回は、その売り出しという特別な場所で、毎回必ずお会いしていた、私にとって忘れることのできない“ある常連さん”のお話です。
このシリーズでは、洋服や生地を軸に、仕事として、人生として、私が関わってきた現場の記憶を綴っていますが、今回の主役は「生地」ではなく、間違いなく「人」です。生地屋として長く働く中で、数えきれないほどのお客様と出会いましたが、その中でも、この方の存在は特別でした。
◾️ 忘れられない存在
その方は、いわゆる“常連さん”でした。ただし、普通の常連という言葉では到底言い表せない存在です。売り出しが始まれば必ず顔を見せ、三日間すべてに参加される。しかもそれが、1年や2年ではなく、30年以上続いていたというのですから、もはや「皆勤賞」という表現がぴったりでした。
私が入社した時点ですでに、その方は“伝説的な常連さん”として社内でも知られていました。先輩方からは「この方が一番長く通ってくださっている」「この売り出しの歴史そのものみたいな方だよ」と、自然と名前が挙がる存在でした。
最初は、正直なところ、少し緊張しました。どんな方なのだろう、気難しい方だったらどうしよう、と。でも実際にお会いすると、その印象はすぐに覆されました。凛としていながらも、どこかユーモアがあり、何より生地と洋裁への深い愛情が、言葉の端々からにじみ出ていたのです。
◾️ 早朝の驚き
その方の熱意を象徴する出来事があります。
売り出し二日目の朝のことでした。私は設営の最終確認のため、いつもより一時間以上早く会社へ向かっていました。まだ街が完全に目を覚ます前、冬であれば吐く息が白くなる時間帯です。
すると、前方を歩く一人の後ろ姿が目に入りました。大きなバッグを提げ、迷いのない足取りで進んでいくその姿。近づくにつれ、見覚えのあるシルエットだと気づきました。
そう、その方だったのです。
思わず「えっ…」と声が出そうになりました。準備をする私たちよりも早く来ている。その事実だけで、その方がこの売り出しをどれほど大切にしているのかが伝わってきました。その瞬間、常連という言葉ではなく、「この場を共につくっている一人の仲間」のように感じたのを覚えています。
◾️ 屋号に込められた想い
その方は、いつも〇〇さんと呼ばれていました。
〇〇とは屋号で、ロシア語なのだそうです。
初めて聞いたときは、正直なところ、
「なぜロシア語なのだろう?」と不思議に思いました。
ある日、思い切ってその理由を尋ねてみると、
少し懐かしそうな表情で、こう話してくださいました。
屋号は、故旦那様がロシア語を学んでいたことがきっかけで
名付けられたのだと。
さらに話を伺ううちに、私は思わず息を呑みました。
旦那様にロシア語を教えていた人物が、
「日本のシンドラー」として知られる杉原千畝氏だったというのです。
しかもそのご縁から、旦那様がテレビ取材を受けたこともあると聞きました。
屋号に込められた背景を知り、
それは単なる名前ではなく、
その方の人生そのものが刻まれたものなのだと感じました。
売り出しのたびに何気なく読んでいたその名前に、
急に重みを感じたことを、今でもよく覚えています。
◾️ 洋裁の原点と、田中千代氏
その方が洋裁を学んだのは九州でした。
しかも指導にあたっていたのは、田中千代氏。
日本の洋裁界を語るうえで欠かすことのできない、まさに草分け的な存在です。
当時、田中千代氏は神戸から飛行機で九州まで通い、
直接指導をされていたそうです。
そのエピソードを、淡々としながらも、
どこか誇らしげな口調で語られていた姿が印象に残っています。
流行を追うのではなく、
型紙、縫製、素材選びといった基本を徹底的に叩き込まれた世代。
その積み重ねこそが、
その方の生地選びの姿勢や、
洋服に対する揺るぎない価値観につながっているのだと感じました。
◾️ 神田との不思議な縁
東京との出会いも、印象的なエピソードとして何度も聞かせていただきました。
修学旅行で初めて東京に来た際、日本橋三越が集合場所だったにもかかわらず、道を間違えて神田方面へ行ってしまったそうです。当時はさぞ不安だったことでしょうが、その神田の街並みがなぜか心に残り、その後の人生でも何かと縁が続いたのだと、笑いながら話してくれました。
偶然のようで、必然だったのかもしれない。そう思わせる話でした。
◾️ 「棺桶」と呼ばれた大きな箱
その方の生地の買い方は、毎回見事でした。流行に流されることなく、「きちんとした場で着られるもの」を基準に選ぶ。その軸は一度もブレることがありませんでした。
ニットにはほとんど手を伸ばさず、織物一筋。その理由も、「きちんとした場には、きちんとした素材を」という、教えとして身体に染み込んだ価値観から来ていました。
購入量は毎回相当なもので、発送には当社で一番大きな段ボールを使っていました。その箱を、冗談交じりに「棺桶ね」と呼ぶのがお決まりでした。
生地に触れながら、用途や仕立て方の話を聞くうちに、その生地がどんな服になるのか、自然と想像が膨らんでいきます。
「もう置く場所がないのよ」と言いながら、それでも新しい生地に手を伸ばす。その姿は、洋裁が生活の一部であり、人生そのものなのだと教えてくれました。
◾️ いちばん楽しい時間
あるとき、ふと聞いてみたことがあります。
「洋裁をしていて、一番楽しい瞬間っていつですか?」
少し考えたあと、返ってきた答えは意外なものでした。
「チュールレースのスカラップを、小さい鋏で切っている時間」
派手でも、大きな達成感でもない。静かで、集中した、ほんのひととき。その表情は、少女のように楽しそうで、私はその笑顔を今でもはっきり覚えています。
◾️ 別れと、心からの感謝
売り出しは、私が退職する2〜3年前まで続きました。
その方が最後に参加されたのは、90歳を迎えられる頃だったと思います。
それ以降、お会いすることはありませんでした。
けれど、その方と過ごした時間や、
背中から学んだ姿勢は、今も私の中にしっかりと残っています。
生地を売る仕事は、モノを扱う仕事です。
しかし本当に心に残るのは、人との関わりでした。
そのことを、この方は静かに、けれど確かに教えてくれました。
この場を借りて、感謝を伝えたいと思います。
心から、ありがとうございました。