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Textile Industry Column糸偏コラム:自由な視点
素材のちから

2026.01.07:第3回 素材のちから

田島弥平旧宅
〜蚕が世界を渡った時代〜

みなさま、こんにちは。
前回、前々回と、富岡製糸場、高山社という「近代日本のエンジンルーム」を見てきましたが、今回は少し視点を変えてみたいと思います。 巨大なレンガ建築でもなければ、制度として整えられた教育機関でもありません。

舞台は、群馬県伊勢崎市の静かな集落に今も残る一軒の農家――田島弥平旧宅です。

正直に言えば、初めてこの旧宅を訪れた人の多くは、こう思うかもしれません。

「……これが世界遺産?」

派手な装置や機械もありません。 あるのは、瓦屋根の上にちょこんと載った“ヤグラ”と、どっしりとした農家のたたずまいだけです。 しかし、この一見すると質素な家こそが、日本の蚕が世界へ飛び立つための「滑走路」だったのです。

田島弥平旧宅

◾️ 農家に生まれた観察者

田島弥平(1822–1898)は、決して武士でも学者でもありませんでした。 生まれは、ごく普通の養蚕農家です。

しかし彼には、当時としては際立った資質がありました。

よく観る。とにかく観る。

蚕が弱るとき、元気なとき。
繭の出来が良い年、悪い年。
弥平は、それらを「運」や「天気のせい」で片付けませんでした。

「何か理由があるはずだ」

この姿勢は、現代で言えばデータ分析型の思考そのものです。 目の前で起きている現象を、感覚ではなく、観察と検証によって理解しようとする人物でした。


◾️ 蚕は、暑さよりも“よどみ”が苦手だった

当時の養蚕では、「蚕は寒さに弱い」「だからとにかく暖める」という考え方が主流でした。 その結果、蚕室は締め切られ、空気はよどみ、湿気がこもり、病気が広がっていきます。

弥平は、そこに違和感を覚えました。

「蚕って、意外と風が好きなんじゃないか?」

この素朴な疑問から生まれたのが、のちに清涼育と呼ばれる養蚕法です。

そのポイントは、驚くほどシンプルでした。
・ 空気を流す
・ 湿気を溜めない
・ 自然の力を無理にねじ曲げない

そして、この思想を建築として具現化したものが、屋根の上のヤグラでした。

田島弥平旧宅

◾️ ヤグラは、その時代の空調システム

田島弥平旧宅の最大の特徴は、屋根の上に設けられた換気用の構造物、ヤグラです。 見た目は控えめですが、その役割は極めて合理的です。

風を取り入れ、暖まった空気を自然に逃がします。 電気もモーターもない、完全に自然任せの換気装置です。

言ってしまえば、江戸末期に生まれたエコ建築と言えるでしょう。

この構造により、蚕の病気は激減し、繭の品質は安定しました。 つまり弥平は、農家でありながら、

建築 × 生物 × 環境

という要素を、無意識のうちに統合していたことになります。


◾️ 世界が欲しがったのは、日本の「蚕」

ここで、話は一気に日本を飛び出します。

19世紀半ば、ヨーロッパの養蚕業は壊滅的な危機に陥っていました。 原因は蚕の伝染病、いわゆる**微粒子病(ペブル病)**です。

フランスもイタリアも、蚕が育たない。 しかし絹は必要でした。

そこで白羽の矢が立ったのが、日本だったのです。


◾️ 最初に売ったのは「繭」ではありません

ここで、意外な事実があります。

日本が最初に大量輸出したのは、**生糸でも繭でもなく、蚕の卵(蚕種)**でした。

江戸末期から明治初期にかけて、日本の蚕種はフランスやイタリアへ大量に渡っています。 理由は明確です。

江戸末期から明治初期にかけて、日本の蚕種はフランスやイタリアへ大量に渡っています。 理由は明確です。

つまり、世界が欲しがったのは「糸」ではなく、健康な命の設計図だったということになります。

高山社は、そのことを100年以上前に実践していました。

蚕の卵(蚕種)

◾️ しかし、卵はいつまでも売れませんでした

ところが、話はそう簡単ではありませんでした。

ヨーロッパ側でも研究が進み、やがて病気の原因が解明されます。 そうなると、日本の蚕種は次第に「特別な存在」ではなくなっていきました。

蚕の卵は、永遠のヒット商品ではなかったのです。

ここで日本は、次の一手を迫られることになります。


◾️ 「では、繭を売ろう」

この転換は、日本の産業史において極めて重要でした。

蚕種が売れなくなったあと、日本が主力輸出品として育てたのが、繭、そして生糸です。

・ 命の設計図(蚕種)
・ 原材料(繭)
・ 加工品(生糸)

輸出の重心は、段階的に移動していきました。

このとき不可欠だったのが、安定して良質な繭を大量に生み出す養蚕技術です。

ここで、田島弥平の清涼育が大きな意味を持つことになります。


◾️ 田島弥平旧宅は「実験室」でした

弥平の家は、単なる住居ではありませんでした。 そこは実験室であり、観測所であり、モデルルームでした。

蚕の育ち方を見て、 換気を変え、 記録を取り、 また試す。

成功例は隠さず、言葉にして広めました。 1872年に刊行された『養蚕新論』は、その集大成です。

これにより清涼育は、弥平個人の技から、社会の技術へと昇格しました。


◾️ 家族と地域が支えた「知の拡散」

忘れてはならないのは、弥平が一人で突っ走ったわけではないという点です。

家族は蚕種の製造と管理を担い、 周囲の農家と情報を共有し、 地域全体で養蚕の質を底上げしました。

田島家は、いわば農業系スタートアップの中核だったとも言えます。

派手なカリスマ性はありません。 しかし、静かに、確実に、成果を積み上げていきました。

こうした人物こそが、社会を本当に変えていくのではないでしょうか。


◾️ 世界遺産になった理由は「思想」です

田島弥平旧宅が世界遺産となった理由は、建物の古さではありません。 また、単なる成功者の家だからでもありません。

評価されたのは、
・ 自然を観察する姿勢
・ 技術を構造に落とし込む工夫
・ 経験を理論として公開した点

つまり、思想と方法論です。

この家は、「うまくいった農家」ではなく、 近代産業を支えた思考の現場なのです。


◾️ もし田島弥平が現代にいたら

少しだけ想像してみます。

もし田島弥平が現代にいたら、 彼はおそらく派手な起業家にはならないでしょう。

SNSで自己主張もしなければ、 講演会で煽ることもしないはずです。

ただ、
・ 現場を観て
・ 数値を取り
・ 仮説を立て
・ 改善する
そして、成果はきちんと共有します。

「すごいことをしているのに、本人は至って静か」 そんなタイプの技術者だったのではないでしょうか。

田島弥平旧宅を訪れると、 今もヤグラの周りを風が抜けていきます。

その風は、 かつて蚕を育て、 繭を実らせ、 日本を世界へつないだ行った風では・・・
などなど、想いを寄せていました。

田島弥平

◾️ 最後に、衝撃のエピソード

私が田島弥平旧宅を初めて訪れたのは、高山社を訪ねたのと同じ日でした。 2014年7月のことです。

現地へ向かう途中、私は強い違和感を覚えました。 田島弥平旧宅は現在の群馬県伊勢崎市にあります。 私が住んでいる太田市の、隣の市です。

ところが、車を運転していると、大きな川を渡りました。

「え……利根川?」

思わず独り言が漏れました。 利根川を渡ったら、埼玉県ではないのか。

そんなモヤモヤを抱えたまま、田島弥平旧宅に到着しました。

見学の最後、私はガイドさんに思い切って聞いてみました。

「ここ、埼玉県じゃないんですか?」

返ってきた答えは、意外なものでした。

「いえ、ここは飛び地なんです」

実は田島弥平旧宅のすぐ近くには、一万円札の肖像にもなった渋沢栄一の生家がある、現在の埼玉県深谷市血洗島があります。

なぜ、こんな飛び地が生まれたのでしょうか。

ガイドさんの説明によれば、利根川は「坂東太郎」と呼ばれるほど氾濫の多い川で、もともとは群馬県側に田島弥平旧宅があったそうですが、度重なる氾濫によって川筋が変わり、結果的に埼玉県側へ移ったのだそうです。

「それなら、今は埼玉県にすればいいのでは?」

そう思ってさらに質問すると、驚く答えが返ってきました。

かつて村の人たちで、「群馬県のままか、埼玉県に移るか」という投票が行われたことがあるというのです。

その結果、群馬県が選ばれた理由は―― 「県都前橋、生糸の市」と呼ばれるほど、生糸のブランド力があったからでした。

しかも、その投票結果はたった一票差だったといいます。

ガイドさんは「真実かどうかは分かりませんが……」と前置きされていましたが、私はその話を聞いた瞬間、強烈に記憶に刻まれました。

もし、あの一票が違っていたら―― 田島弥平旧宅は、世界遺産になっていなかったかもしれません。

そう思うと、歴史とは実に不思議で、そして人間くさいものだと感じます。


◾️ 次回予告

前々回の「富岡製糸場」、前回の「高山社」、 そして今回の「田島弥平旧宅」。

次回は、いよいよもう一つの構成資産、 **「荒船風穴」**をご紹介します。

次回も、どうぞお楽しみに。



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